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特別お題「青春の一冊」 with P+D MAGAZINE
中学1年だったと思う。部活を終えて家に帰ると母が「これ、M家から来たんだけど読むかい?」と本を渡してくれた。遠藤周作の「ぐうたら~」シリーズの一冊だった。
記憶が曖昧でタイトルは危ういが、緑のカバーに和田誠のイラストが描かれていたかも知れない。
M家は母のイトコで人口2万人弱の同じ町に住み、同じ中学に通う同級生がいた。オジは農協に勤め、仕事の途中にしょっちゅう我家に来ては干した宗ハ鰈を肴に酒を飲み、母を「おねえさん」と呼んでいた。絵ヅラは「原稿を取りに行ったが時間を余し、隣の磯野家で時間を持て余すノリスケ」といえば分かりが早いと思う。のらくろやサザエさんも遊びに行ってはよく読んだ。返しそびれた初版の「よりぬきサザエさん」が今も手元にある。2人の女の子がいて、私のことをわが子のように可愛がってくれた。その姉妹と生まれたときからの幼馴染だったが、おかげで成績はいつも彼女の次だったし、むしろ活発な妹のほうと馬が合った。
狐狸庵先生シリーズは作家がインスタントコーヒーのCMにも起用され、洒脱で軽妙なエッセイとして当時ブームとなり、所謂「第3の新人」と称される作家の本が次々と我家に舞い込んだ。
温水便座を設置して高温の噴水に家人が悲鳴を挙げる話や、ウンチの話は言葉を発せず気取ったTVCMに出ている同じ作家の楽屋裏を垣間見るようでページが進んだ。
そんな他愛も無いエッセイの中に、オウムを飼う話がある。
オウムを飼って自分の言葉を覚えさせて、自分の死後に家人や訪れた人々をギョっとさせようとする作家の悪戯である。
自分が死んで、この世から存在が無くなっても相変わらず踏み切りは列車の通過を人々に知らせるのにけたたましい音を鳴らし、TVの天気予報は今週は傘を持って外出することを促し、往来にはせわしなく車が走る。昨日と何一つ変わりはしない日常が繰り返されることであろう。それならば死後に自分の声をまねた鳥が突然語りだすように飼育しておこうといった作家の悪戯と記憶する。
死後の悲しみの感情は一瞬であり、永劫ではない。いずれは負の一次式のグラフのように人の記憶からはすこしずつ消滅していくんだろう。それがせつない。
高校3年のある日、元外科医の作家が体育館で講演した。さほど興味もなく退屈だったのかうたた寝していてほとんど聞いてなかったが「死後の世界なんて存在しません、医学で死とはゼロなんです」と言ったことだけはぼんやりと憶えている。
概略は隣に座る太宰に傾倒していた子にあとで教えてもらったけれど。
Fラン
大学のテストは、教授によっては「教科書でも何でも持ち込み可」ということもある。
これに乗じて「第2外国語の中国語のテストで、中国人留学生を連れてきた人がいる(笑)」
う、やるなあ。
インターネットセキュリティ
PCが重くなって、いろいろ試みるがもうだめで、これはもう買い替え時なのかと頭をよぎるもののウイルスソフトでフルスキャンを試みる。
すると、あら不思議、心を入れ替えたかのようにサクサクと変貌をとげる。
(ウイルスは検出されませんでした)
う~ん、中の人恐るべし。。。
8月
8月に入った。
1日過ぎただけなのに、部屋を抜ける風は7月のそれとはあきらかに違っている。
日曜の夕方に家族で食卓を囲みながらサザエさんとのじゃんけんに一喜一憂する家人に目を細め、カレンダーに記録をつけて次週を予測したもののたいてい予測は外れてしまい、カレンダーの印もだんだんとつけなくなった。
お盆を過ぎれば夏休みは終了するのがこの地域だ。だからカツヲやまるちゃんが毎年8月の最後の日にそれまでまったく手付かずだった宿題を家族総出でやっつけるのは旧暦の儀式のようで、どうしても自分の生活との2週間のズレは否めずにいたものだった。
7月がグラフの頂点なら、8月は放物線の下降へ向かう夏休みの終わりのシーズンへのカウントダウンの開始である。
Opt - out
ストーカーかよ↓
アミノ酸
このニュースをつらつらと見て、口中がなぜかしじみ汁食べたい唾で溢れる今のわたし。
足りていないのかなあ?
R
Rとスナックへ行った。
馴染みの店と思ったら隣に入店してしまった。二人ともその位酔っていた。
Rは「ヤマダ」、私は「ジュンペイ」と名乗った。
ときどき二人で近くに飲みに出るが、初めて行くスナックのアウェイ感たるや、まるで引越先で初めていくと必ず課せられる床屋のオヤジとの対話と同様に、バリアを二重、三重に厚くさせられる。
高校時代からの腐れ縁で、Rは停学をたびたび喰らったが、バス停がたまたま一緒という二人の設定に偽りはない。
ひとしきり話して緊張が少し和らぐと店の女は昔から仲がいいんですねなどと、お決まりの台詞を吐く。
ああ、やっと、使いたかったけど何処で投下したらいいか途方にくれていた一言をこの煙草の煙にまみれたカウンターで放出することができる。
「ああ昔からこいつは、隣の位から10借りてきてずっとそのまま返す気がないようなやつなんだ。」
Recommend
動画再生するときに表示されるCMに辟易したのでアドブロックを導入。
メガネのあんちゃんが毎回トップページに登場するのがウザくて言語と国の設定を変更した。
今度は恋するフォーチュンクッキーが再生履歴に基づくあなたへのおすすめだそうである。
私もイロイロ戦っている。
追記
1)セカオワが参戦してきた
2)ログアウトしてるときは、再生履歴は表示されません
との事。
ネジまいてどうする
Flag at half-mast
ISISに拘束されていた邦人が殺害された。
「大喪の礼にあたり謹んで哀悼の意を表します」だったか、書くよう言われて支店の自動ドアに貼ったのを思い出した。あのときは電車通りの向かいにある銀行も半旗掲げてた。
Too much to lose
1974年 / かもめのジョナサンがベストセラーに
年譜を繰ってもそのくらいしか思い出せない。
それほどショックを受けている。
彼はこの年にワールドチャンピオンの座を獲得し、そして先日他界した。
Bob Gieseke has passed away
http://stunthanger.com/smf/index.php/topic,37957.0.html
それまでの国内の大会では幾度の優勝に輝きながら、1974年についに世界大会でその偉業を成し遂げた。
F1 やル・マンなど自動車レースで例えるならば、ひとつ下のカテゴリーの車が総合優勝したみたいな衝撃である。大排気量の最先端マシンの優位性が唱えられていた時代に一石を投じた感があった。多くのモデルが世に送り出され、キット化された。40年以上を経た現在、日本でもその機体を愛用するファンは多い。
話は違うが、この間の衆議院選で同級生が出馬し、開票は別の友人と酒を飲んで見守っていた。思ったほどの票は伸びず結果は落選で少しばかり落胆した。
開票をTVで眺めながらふと、
自分たちをわくわくさせてくれた人々が年々鬼籍に入るのが寂しくなると話した。
スティーブ・ジョブスや高倉健のように。
Bob Giesekeの訃報は、健さんをもうスクリーンで見ることが出来なくなるような喪失感がある。
ピースとハイライトとpopeye
年末のNHK紅白歌合戦でサザンの歌った「ピースとハイライト」がネット上で話題になってるそうだ。
サザンオールスターズ - ピースとハイライト - YouTube
無期限活動休止宣言から5年経過し復活したPVの見事なまでのハズし方は記憶に新しい。
こうしたいたずらぶりの片鱗をデビューの頃に探ってみた。
1976年
6月
雑誌popeyeが創刊される。アメリカのファッションや文化、生活様式を紹介し若者文化を牽引する。(←この言い回しが既にカビ臭い)60年代東部アイビーファッションと異なり、サーフィンやUCLAに代表される西海岸の自由で開放的な風潮はMEN'S CLUBの「街のアイビーリーガース」でのくろすとしゆき氏による三つ釦上二つがけのヘリンボーンスーツのズボンは4センチ以上の折り返しがなければならない、所謂「ねばならぬ」呪縛から解き放たれた感に満ち溢れていた。
この年の2月にはイーグルスが来日しており、雑誌でも採り上げられていたと記憶する。
1977年
芸能界マリファナ汚染事件で逮捕者
1978年
1月TBSザ・ベストテン番組開始
4月VANジャケットが会社更生法申請 / キャンディーズが解散
6月サザンオールスターズがデビュー
ザ・ベストテンへの登場では上は裸でジョギングパンツ一丁でライブ会場からの中継だった、のちにスタジオ初出演のときはタンクトップ着てたけど。
まあ今でいえば金爆みたいな立ち位置かと思ったね。
こうしたハズし方が計算されたものか天性のものなのか、サザンの音楽性やメッセージ性、政治色の強い歌詞はともあれ、デビューからずっと相変わらずカッコワルイ大人の代表であると思うのだけれど、これに対して
「本当のリベラリズムは…仏やヒトラーの独へ行って勉強されてから発言されるべき」
「なんちゃってリベラル」などとつぶやく青山繁晴は肩に力入りすぎだしむしろ滑稽に映るのは私だけだろうか。